レネ・パウロ

「フルサト〜ビューティフル・ジャパニーズ・メロディー〜」

Rene Paulo "Furusato - Beautiful Japanese Melody"

「フルサト〜ビューティフル・ジャパニーズ・メロディー〜」
ハワイで愛唱された日本のメロディー。
ハワイ在住の日系の人々に愛され、歌い継がれて来た珠玉の名曲。
レネ・パウロが美しく、ロマンティックに奏でた感動の一枚!

※本作は2002年8月7日リリースの旧品盤RES-61をジャケットを一新して再リリースするものです。収録曲目は同一です。


■本作について

「私が生まれ育ったオアフ島のワヒアワには、日本からの移民もたくさんいた。その家族の子ども達がよく日本の歌を歌っていたんだよ。ストリートで歌われているそんな歌を聞いて、自然に日本の歌を覚えていったんだ。『浜辺の歌』などとても好きになった歌もあってね。そして1960年代のワイキキのラウンジで、私が『浜辺の歌』や『蘇州夜曲』を弾くと、ワイキキの人々はみんな喜んだよ。私自身、ハワイアンの名曲『ワイキキ』や『スウィート・レイラニ』と同じくらい好きだった。ハワイの歌も日本の古い歌も、どちらの音楽も私にとっては大切なものだし、ずっと耳にしてきたものなんだ」 ――レネ・パウロ

本作に収録されている日本の曲は、レネが幼少の頃、日本からの移民の子どもたちが口ずさんでいた曲、1951年から日本に、アメリカ軍の軍属ピアニストとして滞在(特にこの時期、中村八大氏との親交が始まりました)した際に覚えた曲、そして1950年代後半からワイキキのラウンジを中心に演奏を行っていた際に、ハワイ在住の日系の人々から教えられたり、リクエストがあった曲で構成されています。

レネ・パウロの一音一音、慈しみながら演奏されるピアノが大変印象的な、そしてハワイで愛されて来た日本のメロディーを今に伝える大変興味深いアルバムです。


■収録曲

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1. 故郷(FURUSATO)
作曲:岡野貞一
1914年「尋常小学唱歌(6)」に発表された文部省唱歌です
2. われは海の子(WARE WA UMI NO KO)
作曲:不祥
1910年「尋常小学読本唱歌」に掲載された文部省唱歌です。
3. 浜辺の歌(SURFTIDES)
作曲:成田為三
1916年、林古渓の詩に当時東京音楽学校(現東京芸術大学)に在校していた成田為三が曲を付けました。
4. 夏は来ぬ(NATSU WA KINU)
作曲:小山作之助
1896年「新編教育唱歌集」に第5巻に掲載された曲です。
5. 真白き富士の嶺(SEA OF TEARS)
作曲:GARDON
1910年1月23日、逗子開成中学校の生徒12名の乗ったボートが、七里ヶ浜の沖合で転覆、全員の命が奪われました。その合同葬儀で歌われた鎮魂の調べです。
6. 椰子の実(YASHI NO MI)
作曲:大中寅ニ
1901年刊行の詩集「落梅集」に収められた島崎藤村の詩に大中寅ニが曲を付けました。
7. 浜千鳥(HAMACHIDORI)
作曲:弘田龍太郎
1920年、雑誌「少女号」新年号に掲載されたのが初出です。
8. 蘇州夜曲(TEARS)
作曲:服部良一
「青い山脈」など数々の名曲を世に送り出した西条八十と服部良一の代表曲で、1940年の映画「支那の夜」の劇中歌として発表されました。
9. 別れの磯千鳥(MISTY SEA)
作曲:ZANAMI FRANCIS KAIICHI
1951年、歌手の近江敏郎がハワイから持ち帰り、1952年にレコード化しました。
10. 君といつまでも(FOREVER MORE)
作曲:弾 厚作
1965年に発売された加山雄三の大ヒット曲です。
11. 知床旅情(BALLAD OF HOKKAIDO)
作曲:森繁久彌
1959年〜1960年にかけて森繁久彌が、北海道の知床半島に映画の長期ロケを張った際に作ったと言われています。
12. 上を向いて歩こう(SUKIYAKI)
作曲:中村八大
1961年、NHKの歌番組「夢で逢いましょう」で坂本九によって歌われました。
13. ここに幸あり(HERE IS HAPPINESS)
作曲:飯田三郎
1956年、映画「ここに幸あり」の主題歌として発表されました。
14. 涙くんさよなら(NAMIDA KUN SAYONARA)
作曲:浜口庫之助
1965年、ジャニーズが歌って大ヒットした曲です。
15. 見上げてごらん夜の星を(MIAGETEGORAN YORU NO HOSHI WO)
作曲:いずみたく
ミュージカル「見上げてごらん夜の星を」の主題歌であり、1963年には坂本九が歌い大ヒットしました。

佐野靖氏によるアルバムの曲解説から一部引用しました。



レネ・パウロ プロフィール

1930年ハワイ、オアフ島ワヒアワ生れ。母親が弾くピアノに興味を持ち、18歳になると、ハワイ出身の音楽家として初めてニューヨークのジュリアード音楽院へ進学しました。

1950年代は、アメリカ軍属のピアニストとして1年半程を日本で過し、六本木や赤坂、銀座で「ジャズ・ピアニストの帝王」として日本の社交界のトップクラスの人々の前で演奏しました。尚、日本では中村八大氏と親交を結んだり、渡辺晋氏率いる「シックス・ジョーズ」のピアニストとして活躍しました。渡辺氏からは日本に止まって活動してはどうか、と提案されましたが、ハワイに戻り、1960年代からいよいよワイキキにて本格的な演奏活動をスタートします。

当時のワイキキは、“ラウンジ・ミュージックの楽園”と呼ばれる程、クラブやバー、キャバレー(総称してラウンジ)が多数あり、あらゆる場所でピアニストが求められ、アメリカから“夢の楽園”ハワイに大挙押し寄せる観光客の前で、ロマンチックなハワイアンのナンバーを奏でるレネは引っ張りだこでした。

1961年、アメリカ本土のリバティレコードから、ファースト・アルバムをリリースし、その後1970年までに18枚から19枚のアルバムをリリースしました。2002年には32年振りのアルバムを2枚同時にリリース。1枚はハワイアン名曲集、もう1枚はハワイの日系の人々に愛されて来た日本の曲(「ここに幸あり」「見上げてごらん夜の星を」などを収録)ばかりを集めたアルバムです。2003年にはハパ、ケオラ・ビーマなどハワイを代表するアーティストの名曲をカヴァーした「ワイマナロ・ムーン」をリリース。2012年にはマカナ、シリル・パヒヌイなどハワイを代表する15人のボーカリストと共演したアルバム「デュエット」をリリース。2015年3月には、「スターダスト〜スウィート・メロディー・フォー・ハワイ」をリリース。2016年4月には「ザ・ウェイ・ユー・ルック・トゥナイト〜スウィート・バラード・フォー・ハワイ〜」をリリース。2017年7月には映画音楽集「ア・サマー・プレイス〜ロマンチック・シネマ・ミュージック・フロム・ハワイ〜」をリリース。